時間の問題
A Matter Of Time 時間問題(Ariana #3)
香港のオンライン雑誌「Ariana」2019年夏号
日本語訳
時間の問題
文章 リー・モーグル
写真 サラ・ファリッド/青山隆
世界保健機関(WHO)によると、推定35%の女性が人生のどこかの地点で身体的または性的暴力を経験している。しかし、加害者・雇用者・家族・コミュニティからの報復や反発を恐れ、公的な機関を通した虐待の報告はごく少数にとどまっているのが実情である。
公に名乗り出た人々の多くは、その告発の信憑性を疑われ、批判されてきた。韓国のオリンピック出場スピードスケート選手、シム・スクヘ氏は、1月に前任のコーチからの複数回にわたる性的暴行を告発した。今年の始め、政治学教授のヴァネッサ・タイソン氏は、ヴァージニア州副知事のジャスティン・フェアフォックス氏から2004年に受けた性的暴行を告発すべく名乗り出た。クリスティン・ブラジー・フォード氏は、昨年9月に、最高裁判事候補ブレット・カバノー氏に関する数十年前のトラウマを証言した。
想定される周囲からの否定的な反応に加えて、ほとんどの性暴力には長期間にわたる心理的影響や恥辱の感情が伴う。このことが、多くの女性たちが声を上げることを、不可能ではないにせよ、一層困難にしている。
声を上げるまでに1週間、1ヶ月、時には40年もの時間がかかることがあり、この時間的隔たりのせいで、女性たちの語りの信憑性がさらに疑われてしまう。公に告発するに至るまでの複雑な感情の変遷を掘り下げることを目的に、「どうして名乗りを上げたのか」そして「声を上げた時に何が起こったのか」、これらについて自身の体験を公表してきた3ヶ国の3人の女性たちに話を伺った。
◆日本:家父長制に基づくルール
札幌出身の石田郁子氏は、東京を拠点に活動する41歳の写真家だ。最初に中学校の美術教師、タナカユウト氏 (*1) から性的暴行を受けたとき、彼女は15歳だったそうだ。
石田氏の話は、妙に、どこかで聞いた覚えがあるようなものだった。加害者は、石田氏の中学校の卒業式の前日に一緒に展覧会へ行こうと誘った。彼女が美術館で生理痛を訴えると、タナカ氏は彼の自宅でひと休みするよう提案した。彼は石田氏にうどんを食べさせた後、隣の部屋で彼女を床に押し倒してキスをした (*2)。
「彼は、私のことを好きだからキスをしているんだ、と言いました」と石田氏は振り返る。「学校では私が好きな教科を教えていたため、私は彼に興味があり、面白い先生だとは思っていましたが、彼への恋愛感情はありませんでした。しかし、彼は自身の感情を告白することで、これがあたかも恋愛関係(の始まり)であると信じ込ませるよう仕向けたんです。」
石田氏はまだ若く無知だったため、男の行為が違法なものとは思いもしなかった。タナカ氏は彼女の教師であり、彼女に対し権力を行使できる立場にあった。石田氏にとって彼は、一般的に不適切とされるような行為をする人物とは思えなかった。
「若かった当時は、恋愛関係が合意に基づくべきであると頭をよぎることすらなかった」と彼女は言う。彼は石田氏によくこのように言い聞かせていた。「あなたに対する気持ちが強ければ強いほど、あなたに触れたい、服を脱がせたいと思うんだ。」
石田氏はたびたび不快感を覚えたため、事あるごとに彼からの性的な誘いに対する拒否を試みたと記憶しているが、彼が耳を貸したことは一度もなかった。それ以降4年間にわたり、石田氏が大学2年生になるまで、彼の加害行為は継続した。「(加害行為が終わったのは)彼が私への興味を無くした時のことでした」と彼女は言う。
彼女はそれからの20年間、自分の身に起きたことについて腑に落ちないままだった。
2015年5月、石田氏は東京で養護施設の職員から性的暴行を受けたという16歳の少女の裁判の傍聴席に座った。そこで、石田氏はこの事件が自身の身に起こったことと類似していることに気がついた。「(裁判を傍聴したことで)私がタナカ氏との間で経験したことは犯罪だったのかもしれない、と自覚するに至りました」と彼女は言う。
石田氏は弁護士に相談することを決意し、学校の性犯罪に取り組むNPO (*3) の相談員に話していくにつれ、タナカ氏の行為は不適切であるどころか、違法であったことが次第に明らかになった。
自身の身に起こったことを実感するとともに、石田氏はこの件を公的に告訴せざるを得ないと思うようになった。しかし、これには彼女が予期していた以上の困難が伴った。多くの人々が彼女を信じないばかりか、一部の友人や家族でさえも、過去に起こったことは忘れて前向きに人生を歩むよう彼女を説得しようとした。このような人々の反応は、日本社会の根底に蔓延する制度化された性差別に依る部分が大きい、と彼女は語る。
「日本の男性には、男性は女性に従われているべき、という権威主義的な物の見方が根付いています。」日本を拠点とし、国内の性暴力について広く取材するジャーナリストのジェイク・アデルステイン氏はそう述べる。「このことが、人々がセクシュアル・ハラスメントの被害者女性の告発を深刻に受け止めることを、非常に難しくさせています。」
アデルステイン氏は、長年の慣習だけでなはく、現職の国会議員にも問題点があると指摘する。日本最大の保守主義団体「日本会議」は、その女性やセクシュアリティについての後退的な立場について厳しく批判されてきた。この団体は安倍晋三首相から支援を受け、政府の方針に影響を及ぼす重要な役割を担っている。
「この団体は、女性は男性と対等ではないと信じており、」アデルステイン氏は続ける。「団体は家父長制に基づく価値観の復興を望んでおり、非常に女性蔑視的な考え方をします。」
「女性が男性を喜ばせなくてはならない」という考え方は、日本の文化にあまりに深く根付いている。そのため、女性は自身が暴行の被害者であることを自覚さえできなかったり、恐ろしさのあまり声を上げることができない、ということが頻繁に起こっている。この傾向は、加害者に対して公的に告発することを望む被害者の数がとても少ないことにより裏付けられる。
日本の法務省は、2018年に国内で新たに410件のセクシュアル・ハラスメントが報告されたと発表した。この数字は前年と比べ35.3%高くなってはいるものの、他の先進アジア諸国と比較すると、1億2千万人という日本の人口に鑑みて驚くほど低い割合にとどまっている。
人口たった734万人の香港では、SAR(特別自治区)の政府統計局によると、EOC(平等機会委員会)が2015年から2016年の間に合計81件のセクシュアル・ハラスメントの事例に対処し、2017年には新たに967件の性暴力が報告されたとのことだ。韓国では、統計庁より発行された報告書「韓国社会情勢2018」によると、2016年に合計29,357件の性犯罪が報告され、その内訳にはレイプ、強制わいせつ、違法な撮影も含まれている。
アデルステイン氏は、日本の警察官の圧倒的多数を男性が占めていることと、警察官の性的暴行を追求する意欲と訓練の双方が欠如していることが相まって、女性の被害者がまともに取り合ってもらえない状況に陥っていると指摘する。
「日本において、女性警察官は全体の10%未満であり、」さらにアデルステイン氏は続ける。「日本の警察官は、証拠の収集方法や被害者への質問方法など、性的暴行事件を追求するにあたって必要な訓練を十分に受けていません。」
その上、日本における有罪判決率は99%を上回る。専門家によると、これは低い検察予算に依るところが大きく、結果的に、検察官は有罪になる見込みの高そうな被告のみを裁判にかけるよう強いられているに近い。
「性的暴行事件を扱うにあたっては『言った、言わない』の水掛け論がが多く発生します」とアデルステイン氏は言う。「(警察官は)検察官がこの種の事件を引き受けたがらないのを知っています。そのため、警察官が被害者に公正な裁きの追求を思いとどまらせようとすることさえあるのです。」
日本において、名乗り出ようとする被害者を挫けさせる要因は他にも存在する。2018年、アジアにおけるセクシュアル・ハラスメントについての実態調査が調査会社カンターにより実施された。調査の結果、日本の回答者の63%は、日本の報道が違法な性的行為についてほとんど焦点を当てていないと感じており、さらに73%の回答者は、違法な性的行為に対し与えられる罰則が不十分であると感じていることが明らかになった。
日本の現行法制度のもとでは、セクシュアル・ハラスメントが何を指すのか定義している法律が存在しないため、被害者が確固とした理論に基づき立件することは困難である。ただし、セクシュアル・ハラスメントとされる性的な加害行為について、強制わいせつ、暴行、名誉毀損として罰することは可能だ。
法廷ではセクシュアル・ハラスメントの事例に強制わいせつ罪が広く適用される。このことが示すのは、身体的接触を伴うセクシュアル・ハラスメントは犯罪とみなすことができるという考え方である。それにも関わらず、日本の法廷と法制度においては、被害者の「NO」が法的に正当と認められるのは、被害者が加害者の脅迫や暴行に対して物理的に抵抗した場合に限られる。もし被害者が「加害者に従う以外選択肢がなかった」ということを証明できなかった場合、訴えが棄却される可能性がある。この現行法は重大な問題を孕んでいる。なぜなら、多くの性暴力被害者は戦うことも逃げることもできないどころか、むしろ生理作用により無意識的にその場で体が動かなくなってしまうからだ。
法廷での体験そのものもまた、被害者を守ることができていない。「裁判では(被害者に対し)暴行の様子を何度も何度も再現させるが、これは極度に精神的外傷を与えうる行為です」とアデルステイン氏は言う。「さらに尋問中には、被害者の答弁に否定的な見方をさせることを目的に、暴行とは無関係の過去の交際や性的経験について、多くの質問を受けることになります。」
さらに、2年前に至るまで、日本の法律上の強姦罪の定義は「男性器が女性器に暴力的に挿入される行為」を含む場合に限定されていた。この法律は、定義された以外の方法で性的暴行を受けた多くの女性被害者が名乗り出ることを阻み、強姦された全ての男性や少年が司法に訴えかけることを拒否してきた。
2017年、国会は法律を改正し、強姦罪の定義を拡大して肛門性交と口腔性交を含めた。また、懲役判決の下限が3年から5年に延長され、被害者の親告がなくとも、検察が事件を起訴することが認められた。これらは本改正がなされる以前からずっと、被害者が必要としていた法制度だった。
石田氏も、ここまで述べてきたような後退的な考え方と政策の犠牲となった被害者のうちの一人だ。2015年12月、彼女はかつて自分の教師であったタナカ氏に会うことを決意した。弁護士の勧めにより、教師に不利な証拠として利用する目的で会話を録音することにした。
「彼が当時の我々の『関係』についてどう考えていたのか知りたいと思いました」と石田氏は言う。「性犯罪は立証が難しいため、当時未成年だった私に対してとった性的な行為について彼が話しているところを録音する必要がありました。」
男は当初、この再会が彼女と再び接点を持てるチャンスであるかのように、屈託なく振る舞ったという。しかし会話が進み、彼女がどれほど怒っているのか悟ると、タナカ氏は謝罪し、カウンセリングのための経済的援助を行うことについて示唆した。
2016年2月、石田氏は録音した内容を札幌市教育委員会に提出した。教育委員会はタナカ氏と面談を実施したが、彼はそこで当時未成年だった石田氏との性的関係および恋愛関係を否定した。彼はさらに、石田氏が「精神的に不安定で、妄想に囚われていた」と述べ、彼女が精神的に追い詰められるきっかけを作りたくなかったため、彼女の作り話に同調していただけだと主張した。
「より強い証拠がない限り、教育委員会としての立場は弱くなってしまう、と委員会から告げられました」と石田氏は話す。「会話の録音というのは、私が思いつく限りの最も確固たる証拠でした。だからこの対応は、教育委員会が(教師への)処遇を決定することを元々望んでいない…もしくは処分をする能力に元々欠けているということなんだと思います。」
教育委員会からの協力が得られなかったことに火をつけられ、自身の主張を一層強く人々に訴えかけていかなければ、と石田氏は駆り立てられた。石田氏は日本の複数の記者に連絡を取ったが、多くの記者が彼女の体験について書くことを拒否した。「ある記者からは、例の教師が仕事を辞めさせられない限り、この件について書くメディアなんてない、とまで言われました。」と彼女は話す。
若い被害者は自身の被害を報告しない傾向があるため、日本において石田氏の事例に類似した事件はほとんど公にならない。日本の男女共同参画局が発表した2018年の調査によると、性犯罪被害者のうちの24.1%は、中学生の時もしくはそれ以前に性的暴行を受けている。被害者の年齢が低ければ低いほど、混乱や恐怖心を強く感じるため、加害者に対して反論できる可能性は低くなる。
「私の身に起こったことを友人や家族に話し始めた頃、これだけの年月が経って、どうして今さら声を上げるのか、と多くの人に聞かれました」と石田氏は言う。中には「そのことは忘れなよ」だとか、タナカ氏の家族に対して「もっと配慮しなよ」などと言う人もいたそうだ。
今年(2019年)2月、石田氏は、タナカ氏の加害行為によりPTSDを発症をしたとして、彼を提訴した。法廷での第一回口頭弁論は4月26日に実施され、石田氏は冒頭意見陳述をした (*4)。
石田氏が法的手続きを進めソーシャルメディアで体験を共有するようになるにつれ、多くの友人や知人は彼女のこれまでの道のりを支持してくれるようになった。そういった人々のほとんどは女性だった。石田氏はその理由について、彼女自身の経験は、女性にとってより身近な問題であるからだと考える。理解を示してくれた女性たちもやはり、多かれ少なかれ、自らの「女性」というジェンダーのために不当に扱われた経験があるのだろう。
6月14日の裁判では、除斥期間を争点とする中間判決のための結審となった (*5)。8月現在、石田氏の訴訟は進行中であり、彼女はこれからも公正な裁きを求めることを固く決意している。
翻訳者:淡谷 慈
◆訳注
*1: 石田氏の要望により氏名は変更しています。
*2: 原文では「彼女を寝室に連れて行き、ベッドに押し倒してキスし始めた」とありますが、事実に即した訳文に変更しています。
*3: 原文では「東京で性暴力サバイバーの支援を行うNGOの性暴力救援センター(SARC)」とありますが、事実に即した訳文に変更しています。
*4: 原文では「石田氏の症状に関する証拠が提示された」とありますが、事実に即した訳文に変更しています。
*5: 原文では「石田氏側が提出した証拠は、現役の札幌市教諭であるタナカ氏を相手取る訴訟を継続させるのに十分であると裁定された」とありますが、事実に即した訳文に変更しています。